金沢大学 医薬保健研究域医学系 耳鼻咽喉科・頭頸部外科学

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メッセージ/医局の活動 011 


「20th Practical Course in Microsurgery of the Skull Base (Zurich) 参加記」

伊藤 真人



 2011年7月19 - 22日の4日間、スイスのチューリヒ大学で開かれたFischのSkull Base Courseに参加した。私にとって今年はとても色々なことを学んだ一年であったが、その中でも最も鮮烈かつ楽しい記憶の一つとなったのが、チューリヒでのフィッシュ先生との出会いであった。一応断っておくがドクター・フィッシュといっても魚のそれではもちろんない。Prof. Ugo Fischの名前は頭蓋底手術の古典的術式といえるInfratemporal Fossa Approach(いわゆるFisch Type A–D手術)として余りにも有名であり、Paragangliomaや錐体部腫瘍の術式としてあまたの手術書に載っている。耳鼻咽喉科医ばかりではなく脳外科医もその名を知らぬ医者はないほどのビッグネームであるにも関わらず、実際にその手術は我国においては、
その複雑性ゆえにほとんど行なわれていないのが現状である。かく言う私も過去に執刀した錐体部腫瘍手術において、本法を採用できなかったために腫瘍の完全切除ができず、悔しい思いをしたことが一度ならずあったため、今回このコースへのお誘いを受けたときに参加を即決した。しかしネットでコースの概要を調べても詳しいことはわからず、やや高めのコース費用(3000スイスフラン)を取り敢えずバンクドラフトで送金してから、ガイドブックでチューリヒの街について調べたが、これといって観光名所もなさそうである。期待と不安が混じるなか、成田空港からチューリヒ行きスイス航空直行便に搭乗した。
 
 7月のスイスといえばアルプス観光である。ほぼ満席のスイス航空エコノミークラスは、そのほとんどが観光客とおぼしきカラフルな出で立ちの老若男女で溢れている。それにしても熟年層の多いこと、何やらトレッキングの予定などの会話が聞こえてくるが、「そんなお年で大丈夫ですか」とこちらが心配になるような方も散見される。私はスイスは2度目だが、今回もアルプス観光はおあずけである。
 宿はいつものごとくインターネットのホテル予約サイトbooking com.で勘で選んだが、現地についてみるとホテルは古い街並の住宅街の一角にあり、内部もこじんまりとした家庭的な雰囲気で、すぐ前にトラムの停留所がありロケーションも最高であった。同行の三重大学の竹内教授は名古屋セントレア発の経由便で、少し遅くに到着された。この日はそう、我らがなでしこJAPANのワールドカップ決勝戦であった。サッカー好きの竹内先生は夜遅くまでテレビ観戦されたようだが、私はエコノミークラスの疲れがでて前後不覚に眠ってしまい、翌朝になって優勝を知らされた。この大会はスイスでも話題になっており、滞在中に何度も見知らぬ人から優勝祝いの言葉を投げかけられた。
 前置きが長くなってしまったので、少し飛ばしてSkull Base Courseの話に入りたい。私は今まで幾つかのTemporal Bone Dissection Courseに参加したが、今回のCourseはそれらと比べてもとても充実した内容であった。コース初日の朝7時30分に会場であるチューリヒ大学解剖学教室に到着しRegistrationを終えた。参加者は14名のようである。もう一人のコース・ディレクターである、LucerneのProf. Linderが気さくに中を案内してくれて、ロッカーで着替えを済ました。コース参加者は2名1組でDissectionを行なうわけだが、案内された解剖実習室(広くはないが清潔で、大きな窓から庭の緑がまぶしい部屋でした)にはLeicaの手術用顕微鏡がずらりと並んでいる。あろう事かそのうち数台は5000万円はするであろう最新型のコントラバスである。さらに各ユニットにはKarl Storz製のピカピカ新品の硬性小物が並んでいるではないか。最初から一発食らったような感じである。
 
 講義室に戻ってコーヒーを飲みながら資料を眺めていると、どこかで見覚えのあるご高齢の先生が入って来て、ちょうど私のすぐ隣のパソコン操作席に荷物を置かれた。ちょっと緊張して、『もしやFisch先生?? でも大分写真と違うなあ』と思っていると、とても気さくに話しかけてきてくれた。写真と違うのは致し方ないであろう。正真正銘のProf. Fischはすでに80歳をこえている。こちらがあわてて日本から来たなどと自己紹介を始めたら、「そんなことは知っている。ところで今までにInfratemporal Fossa Approachの経験はあるか?」と単刀直入に、しかしとても優しい目で尋ねられた。「Type B以上はしたことがない」と言うと、心なしか残念そうな表情であった。実はFisch先生とレジデント時代に一緒に仕事をしたというProf. Robert Ruben先生 (Int. J of Pediat Otolaryngol主幹で現在82歳) と、この6月に草津温泉へ同行したのだが、むちゃくちゃ熱い草津の温に入りながら−(Ruben先生は草津温泉がいたく気に入った様子であった)−「今度Fisch先生に会ったら、よろしく言っとくれ」と言われていたのを思い出したので、Fisch先生に伝えたところ大変喜んでおられた。Fisch先生は厳しさを秘めながらも、常に温厚で温かな雰囲気の先生で、じっと目を見ながら話しかけてくれるのだが、今までこれほど優しい目を見たことがないと感じさせる不思議な力を持った目であった。
 実際のコースの詳細は書き出したらきりがないので、ここではコースの概要についてのみ触れたいと思う。朝8時30分から昼食を挟んで1日10時間のコースが4日間続くのだが、@ Subtotal Petrosectomyから始まって、A Type A、B Type B、C Type C, (D)、D Middle Cranial Fossa (MCF)、E TransOticと続いていく。今回20回目となるコース・プログラムは練り上げられたもので、いわゆる解剖を知るためのDissection Courseでなないことはすぐに解った。プログラムは実際の手術そのものの手技に沿ったシュミレーションであり、実戦的かつ反復学習効果を意識した、まさにスイス的(もしくは軍事訓練的?)合理精神に則った内容であった。つまりこのコース(Dissection)を完遂できれば、@〜Dの手術も完遂できるだろうと感じさせるものである。
 
 もらったプログラムはかなり大雑把な内容であったが、実際には1日が4〜6ステップに分かれており、各ステップにおいて、まず総論的な講義の後、3DビデオでCadaver Dissectionを見せられて、これと全く同じDissectionをするように言われる。時間はかなり限られており、途中までしか進まなくても、次のステップではもう後戻りすることはできない。インストラクターやチューターたちも、「コース参加1回目で最後までDissectionできるはずがないから、みんな何度も来ている」などと言っていた。幸い私たちのユニット(私と竹内先生)は、ほとんどのステップで剖出すべきところは何とか全て見ることができたが、他の多くのユニットの状態はミゼラブルであった。Dissectionの制限時間がすぎると再び講義室に戻り、今度は実際の手術3Dビデオを見せられる。これはFisch先生が執刀したもので、今しがた行なったDissectionと全く同じ手術の場面が映し出された時には正直衝撃を覚えて、「え、ほんとかよー」と思わず日本語でつぶやいてしまった。出血その他のリスクのないCadaver dissectionでも手こずるような手術手技を、実際の手術ビデオとして見せられた時、初めてこのコースの真の目的がわかったような気がした。これは、Fisch先生の手術を実際に行なう術者を発掘して、後世にこの手術術式を残すためのDissection Courseなのだとやっと気がついたわけである。そして3D Cadaverビデオ、実際のDissection、3D手術ビデオと3回同じ手技を繰り返すことで、学習効果は格段にアップする。このサンドイッチ法はこれからも色々な教育の場面で応用可能であろう。
 
 Dissectionには1ユニットにつき必ず1人のベテランのインストラクターか2名の若手チューターが指導につく体制で、数えてみると参加者よりもスタッフの方が多いという贅沢この上ない環境である。私たちのユニットには最初からコース・ディレクターのLinder先生がついてくれたが、あくまで実際の手術を意識した指導であり、通常のDissection courseとはひと味違ったものであった。夢中になってDissection をしているとふと背後の気配がかわり、Fisch先生がじっと覗き込んでいるという場面も多かった。1日10時間、講義の多くも自ら行ない、4日間のコースの全般にわたり陣頭指揮している姿は印象的であった。とても80歳をこえた年齢とは思えない、まさに超人である。
 チューリヒはドイツ語圏であるが、料理は存外おいしかった。最初はウインナー・ソーセージと腎臓料理しかないのかと思ったが、街に慣れると美味しいお店に当たるようになって来た。一皿の食事の量はやはり多く、ビールも1リッターの特大ジョッキである。もっと小さなジョッキもあるが、やっぱりビールは大ジョッキでオクトーバーフェストの気分を味わうのが良い。概してフロアスタッフも気がきいている。チューリヒはまた行ってみたいと思わせる街であった。コース主催のディナーはチューリヒで一番と評判のレストランのワンフロアー貸し切りである。私たちはちょうどお隣ユニットのブラジルの先生たちとご一緒したが、参加者やスタッフの多くは家族連れで、隣の先生も2〜3週間のバカンスを兼ねて参加しているとのことである。こういう場面では、日本は豊かというけれど世界とのギャップを感じさせられた。
 
 
 コースは最終日の終了予定時刻の18:30まできっちり続いた。4日間のハードワークで参加者もスタッフもくたくたなのだが、誰もが少しでも長くFisch先生の講義を聴きたいと思っているのがよく感じ取れた。一方のFisch先生は、まだまだ話し足りない、見せたいビデオが他にもあるといった様子であった。全てのコースが終了してFisch先生に別れを告げるとき、強く握手をしながら「もし国に帰って、この手術をすることがあったら連絡してほしい」とのことであった。

 帰ってからの後日談がある。実は帰国後すぐにType B手術が必要な症例が紹介されてきた。Fisch先生にメールで相談したところ、とても分りやすくて丁寧なお返事をいただいた。やはりType Bがベストの方法だろうとのことで、色々とアドバイスをいただいた。さらにカール・ストルツの本社(ドイツ:Tuttlingen)に連絡してくれて、Type B手術に必要な器械を日本へ送ってもらう手はずまで整えてくれたことにはとても感激した。何だかFisch先生に「勇気を出せ!」と背中を押されたような気がしたものである。そして手術はType B + TransOticで施行して成功した。ご報告のメールを送るとすぐに返事が来た。とても喜んでくれているのがよくわかり、もう一度後ろから背中をどんと押されたような気がしている。(写真では私の後ろがProf. Fischです)